どんなに親しい人とのやり取りでも、
腹が立った時には、
まずイエス様に、
「腹が立ちました」と
正直に祈る
ようにしている。
そうでないと、
「傷んだ感情に触れて」いただけない、
「傷口に慰め」
が与えられない、
から。
詩篇139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
どんなに親しい人とのやり取りでも、
腹が立った時には、
まずイエス様に、
「腹が立ちました」と
正直に祈る
ようにしている。
そうでないと、
「傷んだ感情に触れて」いただけない、
「傷口に慰め」
が与えられない、
から。
詩篇139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
イエス様と
目が合ったならば、
きっと
イエス様の感情が
流れてくる。
だから空に向かって
目を上げる。
イエス様を求めて、
見えない「眼差し」
を見上げて、、、
「心の目」で
その両眼を
凝視をする。
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悲しみを
感じるほどに
イエス様の「眼差し」
を見上げる
ようになる。
そこにしか
慰めの源がないから。
そこでしか
解決の道が見つけられないから。
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人からの負の圧迫感を
感じるたびに、
イエス様の眼差し
を思う。
こちらの方が
「断然強い」
ことを。
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イエス様を見上げ、
「その眼差し」を
見上げていたならば、
クリスチャン同士は
ぶつからない。
ぶつかっても
そこから互いに、
イエス様を
見上げることができるので、
ぶつかることで
「終わらない」
何かあると、
「ねえ、イエス様」
とお祈りしている。
それが
心のバランス
になっている。
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嫌なことがある度に
「祈りの中」で、
イエス様との
愛の交わりを求めるようになる。
「愛の中にいれば」
悲しいことも
憎らしいことも、
消えて
「薄くなって」
いくから。
「自分の」していること
したことで、
自分を見ないように
している。
「イエス様が」
私を見て下さっている、
認めて下さっている。
そこに立っていれば、
何も恐れることはない、
不安もない。
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いつでもイエス様のことを
考えていると、
寂しさも
不安も、
縁遠くなっていく。
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太平洋の真中で
たった
「ひとりぼっち」
のように思えても、
イエス様、
「貴方」が
いて下さるから、
安心なのです。
イエス様。
貴方に
見つめられ、
「可愛いよ」
と言われたら、
満面の笑顔
になります。
「仮面」をかぶって
生きることは、
処世術として
仕方がないが、
「仮面しか」ないならば、
非常に虚しい。
人の目を
気にし過ぎると、
そうなってしまう。
「イエス様に見詰めて」
頂いて
「心」を育てて
もらうことが必要。
天国に
行ったら、
「仮面」は全て剥がされる。
「たましい」でしか、
評価されない世界
に入るのだから、、、。
イエス様は
私にとって
恋人のような感じ。
いつも身近におられ、
語りかけるお相手。
その方がいないと
生きていけない。
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どんな場所に行っても
イエス様を
そこに
お招きしていれば
「安心」
です。
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私の「力の源」は
イエスキリストだから、
イエス様と交わって
いないと、
「力が湧かない」
のです。